目を覚ますと、世界が灰色になっていた。正確に言えば、空に灰色の雲が広がっているために、 光が差し込まないでいる。一体どれほど意識を失っていたのだろうか。 そもそもどうして私の意識が途切れていたんだろう。
体を起こして周囲を見回してみると、たくさんの時計が宙に浮かんでいる。 普通の時計やデジタル時計や鳩時計。まるで時計屋にでも来たようだ。 それらは、どれもばらばらの時間を刻んでいる。チクタクという音を立てながら。
私はそんな光景をみても驚かなかった。きっと、これは夢なんだ。そんな 確信がどこかにあったからだろう。

立ち上がって時計だらけの世界を歩く。歩いても歩いても、空は灰色だし、時計だらけで何も変わらない。 どこまで行くんだろう。私にも分からない。誰なら分かる?時計の針がばらばらに動いているせいで、どれだけ時が進んだのかもわからない。 何時間も経ったような気がするし、一分も進んでいないような気もする。 肉体的な疲労を全く感じないので、どこまでも歩けるような気がした。 突然、これが夢でなかったらどうしようという不安が私を襲う。もう戻れなかったら、 一生この時計と灰色の世界で暮らしていくのだろうか。けれど、今の私は元の世界を 忘れてしまっていた。思い出そうとしても思い出せない。私が前にいた世界も、 こんな風に空が灰色で、時計に囲まれていたのだろうか。そうだとしたら、 こちらが本当の世界なのかもしれない。昼寝をしている人が蝶になって飛ぶ夢を見て、 どちらが本当の自分なのかと考えるという話を思い出した。

しばらく歩いていると、人影のようなものが見えた。私は目が悪いほうではないのに、 それは黒い塊にしか見えなかった。一メートルほど近づくと、ようやくそれが生きている 人間で、同い年くらいの青年であると認識できた。 白いシャツを着て丸い顔をしているのに、目つきはやけに鋭いのでちぐはぐな印象を受けた。 彼はぼんやりと宙に浮く時計たちを見つめていた。
「こんにちは」
私の口から出たのは、どうでも良い挨拶。そんなことを言いたかったわけじゃないのに。
「こんにちは」
彼はぼんやりとした顔のまま挨拶を返す。
「どうして、この時計たちは異なる時間を刻んでいるの?」
また、どうでも良い事を聞いてしまう。まるで、自分が二人いるようだった。 どうでも良いことを気にする私と、現実的なことを気にする私。 今は前者の力が強いらしい。夢だから?
「見失ってしまったからだよ」
「見失ってしまった? 何を?」
「さあ、何だろうね。君なら知っていると思って待っていたんだけど。 分からないなら良いよ。少し歩かないか」

私と彼は、時計しか無い灰色の世界を歩いた。どこまで行ってもこの世界は変わらないようだった。 その間、会話は一切無かった。チクタクという音だけが世界を支配していた。 だんだんその音を聞いているうちに、自分の声もチクタクというようになる気がした。 この時計たちは意思を持っていて、私たちに何か訴えかけようとしているのかもしれない。 そう考えると、だんだん居心地が良くなってきた。ずっとこの灰色の世界で暮らすのも悪くは無い。 どうやら私一人ではないようだし、余計なことを考えなくて済みそうだから。 けれど、余計なことって何だろう。何か余計なことを考えていたのだろうか。分からない。 「ここは気に入ったかい?」
「うん」
「そうか。おれは気に入らないけれど。どこが気に入った?」
「時計の音が心地良い。それに、どれもばらばらだから、自分が気に入った時間を 信じることが出来るじゃない」
「本当にそれでいいの?」
「だれがそれを悪いと決めたの。誰もそんなことを言ってはいない」
「なら、おれが良くないと言おう」
「突然何よ。あなたは一体何物なの?」
「何物?さあ、分からないね」
「私の前で見せるあなたと、他の人の前で見せるあなたは別物にしか見えないの」
「それで何か問題があるの?」
「問題は無いけれど。ただ、ちょっとどうなのかなって思っただけ」
「その答えは簡単に出せるようなものではないさ。もしかしたら、おれよりも君のほうがおれが何物であるかって事を知っているかもしれない。 君の前で見せる姿も、他の人の前で見せる姿も、どちらも本物なんだよ」
「そうなの?」
「ああ、そうさ」
すらすらとそんなことを喋った私だけど、自分で言っている意味が分からなかった。 どこかで彼と会ったことがある?そんなの分からない。彼は誰なのか。それも分からない。
そのときだった。突然、すべての時計の針が十二時を指して止まってしまった。 そして、すべてが吹き飛ばされてしまうのではないかと思うほどの強い風が吹き始めた。 けれど、風に苦しんでいるのは私だけで、彼と宙に浮く時計は平然としていた。
「もう時間みたいだ。君は帰るんだ。元の世界に」
「元の世界はここだよ!」
「そうかもしれない。けれど、今君がいるべきなのはここではない」
目を開くのもやっとになってきた。風の音で、彼の声も聞こえなくなりそうだ。
「私は…これからどうすればいいの?」
「君は、君の時間を刻め。周りの時計なんかに頼っちゃいけない。あと、覚えていて欲しい。 おれはいつも君とともに存在している。だから、さよならじゃない」
薄目を通して見える世界は、だんだん明るくなっていく。彼の姿も光に溶けていった。 そして、また私の意識は途切れる。