重い色をした曇り空の下に、にごった青色の海が目の前に広がっている。
波が打ち寄せるたびに、湿った潮の香りが漂ってくるようだった。
彼女はゆっくりと海に向かって歩き出す。僕はただそれを見つめている。
薄地でよれよれの白いワンピースを身にまとい、小さな鞄を手にした彼女は よく言えば大人びていて、悪く言えばやさぐれてしまったように見えた。

彼女と僕はたいした関係ではない。
当然恋人同士ではないし、過去にそういう関係であったと言うわけでも無い。 だからと言って友達というわけでもない。けれど、何となく関係が続いていた。
僕は彼女のことを何とも思っていない。彼女も僕のことを何とも思っていない。
だからこそこういう関係が続いているのかもしれない。

彼女はまるで子どものように波と戯れている。笑顔だけど、無理をしているのは分かりきっていることだった。 僕はその様子を遠目に見ながら、近くにあった岩に腰掛ける。景色がぼやけた気がした。 眼鏡の度が合わなくなってしまったのかもしれない。そんなありふれたことを考えながら、 煙草に火をつけようとする。風が強くて、ライターの火が揺れてしまうので手間取った。

しばらくすると、彼女が僕の方に戻ってきた。
「もう波と遊ぶのはやめたのか」
「飽きちゃった。それに眠いし」
子どもっぽく笑う彼女。その笑顔を見るたびに心が痛む。どうしてなのかは分からない。 年相応ではないからなのか、彼女はそういう笑顔をするような人では無いからなのか、 無理をしているのが分かりきっているからなのか。そんなことはどうでもいいのだけど。

人影は見当たらず、言葉を無くした僕らの耳に届くのは、波の音だけだった。
そもそも朝六時の海岸に誰かいることがまずおかしいのだけれど。
とっくに日の出を迎えたはずなのに、重たい雲がそれを遮ってしまっている。
「ねぇ、このまま朝が来なかったらどうする?」
彼女は言った。
「もう朝だ。ただ、雲が多いだけで」
僕はありふれた回答をする。朝が来ないわけではない。夜が明けないわけではない。 そんなことはありえないのだ。どんなものでも始まってしまえばいつかは終わるのだ。 彼女はそんな簡単な事すら理解していない。もしかしたら理解していないふりなのかもしれないけれど。 彼女の心にも雲が掛かっているのかもしれない。昔よりも疲れきった顔をした彼女を見て思う。
「毎回思うけれど、どうして僕なんだ。他に男がいるんだろ?」
「馬鹿じゃないの。それならあんたなんか呼ばない」
もっともな答えだ。
「あんたは良いよ。いつも気楽そうでさ。あたしはもう、この人生、いや世界に うんざりした。もう疲れた」
「たかだか二十年とプラスアルファくらいしか生きていないのにか」
「あんたには分からない。あたしがどんな思いをしてきたのか」
毎度毎度、このやり取りを繰り返す。どんな思いをしてきたか、といっても すべて男がらみで僕からすれば本当にどうでも良いことだった。それでも、 僕は毎回きちんと彼女の話を聞いた。それはそれでおかしな話だった。
「どうして、あたしばっかりこんな目にあうんだろう」
彼女は涙を流しながら言った。涙で化粧が落ちてしまったようで、目の周りが 真っ黒になっていた。同じような光景を何度も見た。同じような言葉を何度も聞いた。 彼女は後悔はするけれど反省をしない。だから、同じようなことを繰り返すのだ。僕は そんなどうしようもない彼女のことを、どこかで可愛く思っているのかもしれない。
吸いかけの煙草を地面に捨てて、彼女の手を握った。

きっと今日も、彼女の朝は来ないだろう。